白峰は、日本三名山のひとつ白山の麓、
平年の積雪が2mを超える日本屈指の豪雪地帯で、
雪とともに生きる独特の生活様式を生み出してきました。
白峰地域に人々が住み始めたのは、縄文時代と考えられています。前に川をひかえ、後ろには丘陵が連なり、日当たりのよい段丘上に、山川の幸を生活の糧とした人たちが住み始めました。
その後、養老元年(717)に泰澄大師によって牛首と呼ばれる現在の白峰集落の中心となる村が開かれたとされています。
戦国時代に、白峰を治めていたのは、加藤藤兵衛という土豪です。慶長6年(1601)に越前国守より正式に白山麓十六カ村を治めるようにといわれました。しかし、白山麓では、白山山頂での経済活動の権利を巡り越前・加賀・美濃の麓の村々で争いが古くからありました。そこで寛文8年(1668)には、加賀藩領の尾添・荒谷を加えて十八カ村が天領となり、白峰の山岸十郎右衛門家が、幕府の命により明治維新までの約200年間、代々大庄屋(取次元)としてこの地をあずかってきました。
白峰は、周囲を山々に囲まれた豪雪地帯で、稲作はほとんど行われていません。江戸中期から先進的な養蚕が行われ、その収入により生活に必要な日用雑貨や海産物を手にいれていたようです。
白峰の町並みの最大の特徴は、山村でありながら建物が密集して町場のような景観を形成していることです。
明治中期の紀行文では、白峰について「製糸業が盛んで、警察分署、登記所、宿、料理店、雑貨店、飲食店、呉服店、芸鼓、消防の施設など様々な施設がある。」と記し、山あいとは思えない集落の賑やかさを称(たた)えています。
大きな特徴は、黄土色の大壁と縦長の窓が連続してみられることです。薪などの出し入れのため、玄関の2階部分に大背戸といわれる間口一間の出入口を設けているのも特徴のひとつです。仏壇出しは、仏壇の上を人が踏まないように妻側背面に出しを付け、火事のときに仏壇を直接外へ運び出せるようになっています。現在は少なくなりましたが、年中大梯子を屋根にさしかけておくのも特徴的です。